かつて推しだったヒーローに寄せて

 数年前まで“推し”と呼んでいた人のブログを久々に見て、当時自分が贈った花の写真が載った記事で思わずスクロールする手が止まった。

 自分を好いている人たちへのアピールや反応がとかく不得意な人なんだな、と感じた覚えがある。不得意ゆえに公平性のある返しができないから、彼を好きだと言う人間同士でしばしば論争が起きていたこともあったし、狭い界隈の殴り合いがインターネット上でも現場でもあった。私もそのひとりだった。彼に対しての部分もあったし、彼の周りや最前を囲み埋める古参と自称する人たちの、自分たちによる自分たちのための自治が煩わしくて殴っていたこともあった。よくないね。よくないです。

 こちらが勝手に好いている相手に物を贈ることや言葉を送ること、それは自身の勝手な行動であって、贈った/送った相手からの見返りありきで行動するなんておこがましいし、そもそもそういう感情を持って動くのは違うんじゃないかと今は思う。けど、当時はどこかで期待を寄せていたんだろうな。友人が好いていた人は常にていねいに返していたから余計に。近くで喜ぶ友人の姿がうらやましかった。
 正直当時は個レスが欲しかったけれど、到底それは望めないから。せめて全体に向けた「ありがとうございます」だとかを節々に投げかけてほしかった。わたしたちが見えていないのかなと思うほど、心が向いてこない彼の姿にこちらの心が疲弊することがよくあった。それでも好きだから見つめていたけれど。
 公平性に欠いた(ように見える)彼の返しの行動を見て、もうこれはしょうがないことだし、そもそも心を尽くすのも贈る/送るのは、ぜんぶ自分の勝手なことだと思いはじめた頃に送ったのが冒頭に書いた花だった。

 ヒーローに憧れていた彼がヒーローになる舞台、千秋楽が彼の誕生日、彼のその公演に対するいつもより熱く見える文章。(彼は自身の仕事に対して「たぶんこれそこまで進んでやりたいことじゃないんだな」とこちらもなんとなく分かってしまう態度を見せがちだった)それらを見てああたぶんこれは彼にとって大きな仕事で、大切な出来事になるだろうなと確信して、その公演にその日に少しでも華を添えられたら、思い出深くなれたらと強く思った。
 ネットで検索して花屋を何件か回って。1週間以上続く公演、千秋楽且つ彼の誕生日までなるべく見劣らないようなものを、そしてなるべく周りに埋もれないようなものを。一瞬でも、彼が見てくれるようなものを。目に見えるかたちの見返りは望まないけど、せめて見えないところですこしでも心を向けてほしいと祈りながら願いながら考えていた日々だった記憶がある。

 自分が公演に入ったのは3日目と千秋楽の2公演。3日目公演のときに、有難くもわりと見易い位置に花を置いていただけていることを確認して、千秋楽にもそこまで姿が変わっていなかった花の姿に胸を撫で下ろした。公演期間中、彼はツイッターにもブログにも特に送られてきた花や差し入れには触れていなかった。それはいつものことで、終わったとしてもおそらく触れることはないのだろうなと思った。それでも良かった。もうすべては自分が勝手にしていることだったから。

 ヒーローになっている彼の姿はとても輝いていた。少年みたいにきらきらした目で、強い声で、感情が溢れた表情をくるくると見せていて。至極うれしそうに楽しそうにしている彼の姿を見ることが出来て、こちらもほんとうにうれしかった。初めて彼を知って好きになったときの瞬間を思い出していた。
 公演が終わって、最後の挨拶で共演者に囲まれながらやりきった笑顔を浮かべている彼の姿は間違いなくヒーローそのもので、この姿を見られたことが彼からの最大の返しだと思った。好きでいてほんとうに良かったと、そのとき強く感じていた。

 公演が終わったその夜に、タイムラインに彼の感想と感謝の言葉が綴られたツイートが流れてきて、その数日後にふだんあまり更新されないブログが更新された。1週間以上続いた舞台でヒーローであり続けた日々は、長文を書くのが苦手だと言っていた彼にブログを書かせる熱を十分に持っていたのだろう。私は久々の更新に喜びながら記事を開いた。そこにはツイートでは収まりきらなかったであろう言葉や共演者との写真がたくさん散りばめられていて、ああほんとうに楽しかったのだな、と感じて思わず頬が緩んだ。
 スクロールをしていくと、記事の半ばあたりで見覚えのある写真が彼の一文のすぐ真下に貼り付けられていた。そのまま流してしまいそうだった目と指を一瞬止めて、改めてその写真を見る。見間違いではなかった。その写真に写っていたのは、間違いなく私が彼へ贈った花だった。

 そのときの気持ちは今でも言葉に言い表せない。当時はツイッターで主張などせず、友人に伝えたのも記事があがってからだいぶ後だった気がする。
 予想なんてしているわけなかったし、先述した通り、ほんとうに、目に見えるかたちでの見返りなんて求めていなかった。願ってもいなかった。その矢先で、彼の感謝の言葉と、“彼が見てくれた”という事実が目に見えるかたちで分かったのだ。
 なんだかもう一気にいろんなものをすくってもらえたような気がした。心を向けてくれることがこんなにも嬉しいものなのかと思った。たとえそれが「こういうポーズとっておいたほうがいいな」とか、そういう戦略的(ということばがあってるか分からないけど)な考えからだったとしても、それはそれで構わないなと思った。こちらからしたら見えているものが、見せてくれるものがすべてだから。

 私の贈った花の写真に続いて、他の人たちからの贈り物の写真が貼られ、「ありがとうございました。」と、(おそらく)送り主たちへのお礼の言葉が添えられていた。彼を推しとして見つめていた数年間のなかで、その感謝の言葉はこれ以上ない忘れられない言葉だった。

 私はもう彼の姿を見つめていないけれど、私にとってあの日あの時間、彼がヒーローであり続けた姿を見られたことは大切な記憶で、心を向けてくれたあの瞬間はいつまでも忘れない。